こんにちは、カーム静也です。
今日はまた一つ、“整えの時間”が生まれた出来事を記しておきます。
場所は帰りの電車内。
そう、何気ない日常の中で訪れる、静かな伝説のはじまりです。
帰り道が僕の「整えスタジオ」
通勤電車。
夜の車内は、仕事を終えた人々のため息とスマホの光に包まれている。
みんなが脱力しているその時間、僕はひとり──
MacBookを静かに開いた。
整えがはじまる。
先日、自分に引っかかった“あの瞬間”を、静かに見つめ直す時間。
実は先日、ちょっとした“教育事件”があった。
わが子が書いた「木」の字。
右の払いをスッと1本で書いたのを見た妻が、
👩🦰「ちゃんと止めて、払わなきゃダメ!」
それに対して俺は、つい反論。
👨🦱「えっ?最近のiPhoneとかパソコンで見る“木”って、全部まっすぐじゃね?」
…という、なんとも地味だけど、深いテーマが心に残っていた。
教育ってなんだろう?を整える
妻は「正しい型を教えたい」気持ち。
僕は「今の時代とのズレを考えたい」気持ち。
どっちも間違ってない。
でもこの感情の交差点で、
自分は何を信じてわが子に伝えたいのかを、帰り道に考えていた。
そしてMacBookを開いた僕に──
静かに整えていると、
隣の席の人がカバンをごそごそ。
ふと気づくと──
お隣さまもMacBookを開いていた。
別に騒がしい感じでもない。
ただ静かに、自分の何かと向き合っているようだった。
もしかしたら、僕の“整えモード”が伝染したのかもしれない。
だが、最大の敵は「金具」だった
吊り革を掴んだ女性の素敵なカバン。
その金具が──
僕のMacBookに触れそうな距離、0.5ミリ。
……これはまずい。
もし「ガリッ」といったら、整いどころか悲しみの雨が降る。
僕は静かに決断する。
「……今は、しまおう。」
整えは、開くことじゃない。引く勇気でもある。
人はつい、「やること」「前に進むこと」にフォーカスする。
でも、本当に整ってる人間って、
「やらないこと」も判断もできるんだと思う。
MacBookを閉じることは、
それは、逃げてるわけでも諦めてるわけでもない。
自分と、周囲を守る選択。
整えって、そういうものじゃないかと思う。
今日のまとめ
・帰り道こそ、自分と向き合える時間
・教育とは「正しさ」だけでなく「時代」も見ること
・Macを開く勇気と、閉じる優しさ
・整えは伝染する。静かな行動は、静かに誰かを動かす
今日もまた、何かを整えて、何かを守った一日だった。
電車の中でMacを開く人がいたら、
もしかしたらその人も、静かな戦いの最中かもしれない。
そしてまた明日も、僕は整えにいく。
今日も電車内で穏やかに一歩前進。
そんなあの時の僕が大敗北した時の記事はこちら👇
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